2013年12月13日金曜日

「お客さま」になる3つのステップ



ビジネスでの成果は人との関係性の結果なので、まず人と出会うことが最初のステップです。

お客さまの行動にはご存知のように<3つのステップ>があります。

STEP.1 見込客
STEP.2 新規客
STEP.3 固定客(既存客)

3つのステップの内、あなたが一番力を入れているのはどこですか?

自分の体験でお話すると、一番、力を入れて、行動してきたのは「見込客」づくりです。毎日の必須業務として相当な時間を意識的に投入しました。

見込客は、まだ取引がないので、利益にならないので見落とされがちです。

一方、目の前に現れる「固定客」「新規客」は重視される傾向にあり、それはそれで間違いではありませんが、「固定客」は必ず減っていくものなので、埋め合わせする新規客が必要になります。求める成果にふさわしい数と質の新規客を集めるには、相応の見込客が必要です。見込み客がなくなれば会社の存在は厳しくなります。

見込客は、どのようにすれば作れるかを考えてみてください。見込客は勝手に湧いてきません。だから見込客にかかる費用は、「新規客獲得コスト」に含まれます。

繁盛するには、計算式があります。

(客単価-新規客獲得コスト-原価)×客数=利益

買う人、売る人、両者をWIN-WINにするには、この数式の効率化にかかっていますが利益をアップする、コストを引き下げるキーワードはこの数式に隠れている「見込客」なのです。

「見込客」「新規客」「固定客(既存客)」は三位一体の関係です。見込客を作るには、固定客がたくさんいるほど有利です。固定客がたくさんいるとは、たくさんの人が支持してくれているからです。たくさんの人が支持してくれていると、まだ取引していない人も支持する声を聞いて、見込客も増えますので、その中から新規客になってくれる人も増えます。

そこで努力の仕方という側面から見ると、「固定客(既存客)」に持てる力のすべてを投入せざるを得なくサービス力が重要になります。

サービス力とは、次の5つです。
  • 必要なものがあること
  • 安心・安全であること
  • 買いやすく、感じがいい 
  • 気持ちいいこと
  • コストパフォーマンスが高いこと
これは「ホールプロダクト」に置き換えて表現することもできます。
  • コアプロダクト(商品そのもの)
  • 期待プロダクト(付加価値)
  • 拡張プロダクト(買いやすく、気持ちがいい)
  • 理想プロダクト(満足していてこれ以上期待するものがないレベル)

微妙に語り口は違っても、4P ,4Cで語られる「マーケティングミックス」でも結局は同じことを言っています。
  • Product(製品)
  • Price(価格、割引等)
  • Promotion(プロモーション)
  • Place(流通、立地等)
  • Commodity(商品)
  • Cost(コスト)
  • Communication(コミュニケーション)
  • Channel(流通)

結局はみんな「これしかない」こと、つまり同じこと、究極のサービス力のことを言ってます。究極のサービス力とは見込客を集められるサービス力です。

これを日々の商売、現場レベルで言うと「見込客を集められるサービス力」が一番大事になります。そこで「見込客さえ集めたらいい」と馬鹿な行動に至らないように、三位一体で「究極のサービス力」をアップして行く重要を説いているのです。

見込客は作るものなのであって、「固定客(既存客)」を大切にしていたら自然に増えるものではありません。
胸に手を当てて考えてください。見込客を意識して具体的にどのようなアプローチを継続していますか?

そんな時間も費用もない?だからこそ口コミがもっとも簡単なのです。コストパフォーマンスを高めるためにも、固定客に持てる力のすべてを投入することが重要なのですが、意気込み的には「見込客」には持てる力のすべてを超える力を投入することになるのです。

その上で、見込客集めを徹底的に取り組むことが必要なのです。

告知活動には費用がかかります。その費用を「新規客獲得コスト」に含ませていることが企業存続の点で重要になります。ところが価格競争に巻き込まれたところは、このコストの圧縮を最初にするケースが目立ちます。その一方でサービス力を軽視して行き止まりになります。
コストの圧縮を迫られると固定客へのサービス力を口コミになるレベルまで引き上げる必要があるのです。理屈ではなくやるしかないのです。

日常的に「三位一体の関係」を実際に行動していると、自然に「固定客(既存客)」を大切にしたいと思うようになります。
新規客がお越しなると、囲い込みの努力が抜けるようなこともなくなります。「見込客」を作る努力の大変さを身にしみて記憶しているからです。

2013年12月10日火曜日

把手共行/サービスの条件


サービスの条件

お客さまにとっても、売る側の人にとっても、自分の存在価値を高めてくれるのが、サービスの在り方、サービスの条件なのです。つまり競争に参加する条件こそが自分の存在価値そのものなのです。

サービス競争と言うと、身を削って奉仕するような錯覚を感じるような人が未だにたくさんいます。しかし自分が人とどう向き合うのかは、自分が人としてどうありたいのかということであって、強要されたり、強制されたりするものではないのです。

人としてこうありたい、このようになっていけたらという目標やあこがれのない人にとっては、サービスとは余計なことなのでしょう。つまりサービスを奉仕だと思う人とは、野球に興味がない人が、儲けることができるからと言ってプロ野球界に就職するような、ミスマッチが元々の間違いなのです。

(存在価値を感じることができる)必要または欲しいものがある
(存在価値を感じることができる)きちんとした完全な商品(あるいは役務)がある
(存在価値を感じることができる)買いやすさがある
(存在価値を感じることができる)気持ちよさがある
(存在価値を感じることができる)コストパフォーマンスの高さ


サービスの条件とはビジネスの基本となる条件であり、儲けることができる仕組みの基本です。言うまでもなく儲かるのはお客さまの共感があるからです。お客さまの心と同期していないとやってるつもりで空回りします。

禅に「把手共行(はしゅきょうこう)」という言葉があります。自らの清い心と手を取り合って生きて行くという意味です。苦しいときも悲しいときも分かち合う友人を作るということです。互いの気持ちを伝え合い理解しあえるには時間が必要です。

「笑っていいとも」というテレビ番組は人々の心の在り方に変化を与えたモンスター番組でした。「あいつ暗い」とか「明るいとか」を気楽に言うようになり、友達の概念にも少なからず影響を与え、友達は数の問題になりました。でも本当は質こそ大事です。心から信頼できることが大切です。ですから時間がかかるものなのです。心を開いてつきあうことが大切です。それこそがサービスの条件の基礎なのです。心を開いて見せられないようなものならサービスの形にさえならなくて当たり前なのです。


こんなお弁当を作ってあげる心がサービスの正体です。↓






2013年12月9日月曜日

繋がり方を行動段階で間違えない



東北の悲劇によって多くの人々に絆が大事だと再認識させました。絆は人間だけでなく物事にも絆があります。結果はプロセス、原因と繋がっています。

結果さえよければプロセスはどうでもいいのかと問えば、そんなことはないと返ってくるでしょう。しかし本当にそんなことはないと考えているのでしょうか、それを行動にしているでしょうか?結果を出すためには手段を選ばない。そんなやり方がうまくいくとはどうしても思えないのです。

「こんなものでいいだろう」は「買ってくれなくていい」と同じ意味。

「人の存在価値」を感じてもらえることを念頭に置いているので、「こんなものでいいだろう」と適当に処理された商品やサービスに出会うと、お客さまは気分が沈みます。
「こんなものでいいだろう」は「来なくていい」「買ってもらわなくていい」と同じ意味なのです。

「来なくていい」「買ってもらわなくていい」という気持ちで働いている人は、ほとんどいないほど少ないと思います。ところが、そんなつもりはなくても、「こんなものでいいだろう」は蔓延しています。
なぜでしょう?日頃のくちぐせや気分が知らず知らずに態度に出ているのです。

モノが溢れた社会で、ビジネスを始めるとき、商品を持っているだけでは成功しません。存在価値を充足するサービスが不十分だと、人は集まってきません。同時に従業員にも存在価値が感じられるようでないと働く人も集まってきません。

「人の存在価値をいかに高めるか」というテーマをクリアした上で、「人を大事にする仕事の仕組み、販売の仕組み」がないと成功しないのです。

どんな時代でも、世界のどこでも、ビジネスを展開するには、売る装置、買う装置、さらに売る人と買う人が必要です。人材(売る人と買う人)を集めて価値ある存在にするのが成功の条件です。


両方がそれぞれに存在価値を感じるようであれば、人は集まってきます。つまり舞台が出来て、役者もそろったという状態です。
そこが始まりですが、いつの間にか始まらない場に変わってしまっているのに気がつかず毎日当たり前のように始めていないか気をつけたいものです。

「つながり」つまり「共有」は、価値観で実現したい。

あなたと私、共に「幸せ」になりましょうね。。。。。そう思える価値観を共有した先に、共に栄える世界が広がるのではないでしょうか?リピートとは単なる仕掛けではなく、お互いに尊重しあえるつながりがあるところに起こります。



2013年12月8日日曜日

露 / むきだしの仕事術



禅に「露」という言葉があります。

寝食を共にして自分をむき出しにして隠すことが何もないのが仲の良い家族です。

企業では「ガラス張りの経営」と言います。しかし心隠して数値をガラス張りにしただけでは「ガラス張り」にはなりません。

当事者としては、心隠すのは円滑なコミュニケーションをするためだと思い込んでいますが、
でもそれは言い方を変えると壁を作ることで、ストレスが生じます。このストレスは本来の仕事とは関係のない負担です。

仕事に集中できない環境を作っていることに他ならないのです。「心技体」と言いますが、これがひとつになってこそ「フロー状態」が作れます。

マネジメントする立場にある人はマネジメントできるように自分をむき出しにして働ける環境を作ることが大事なのです。


ビジネスは技術です。しかし間違った使い方をすると人を傷つけることになります。

そこで、心が羅針盤になります。しかし心だけではビジネスは失敗します。

ビジネスには歴史があり、先人たちが遺してくれた成功と失敗があります。心と技術が正しく使われてこそ、ビジネスは成功し、成長します。それは難しいことではなく、すでに答えがはっきりと出ていることを正しく使えばいいことです。


人は完全ではないので、不足があります。正しく使えるように、なにが正しいのかを知

り、必要なスキルの不足は補う。不必要なスキルは磨く必要がない。つまりなにが必要
でなにが不必要なのかを明確にしてスキルの組み替えをする。それには「必要なスキル
の見える化」が必要になります。

では、順を追って説明していきます。

1.サービスの条件

人は誰でも価値ある存在だと思いたいものです。
そのために生きていると言っても過言ではありません。
だから大事にされないと元気がなくなります。

すべての消費は、自分の存在価値を感じるために起こっているといって過言ではありま
せん。モノもサービスも、存在価値を感じさせてくれるものには重きを置きます。
生きるための生活必需品であっても同じです。

有名なマズローの欲求5 段階説を参考にするとよく分かると思います。
ビジネスは、「人の存在価値」を抜きにしては語れません。

お金があってもモノがない環境であれば、不便ではあっても、心が痛むことはありませ
ん。しかし、生活に必要なものがあり、情報が届いている環境で、手にすることができない状態では、自分には存在価値がないように感じます。

日本の高度成長時代、1955~73年というのは、モノを手にすることで自分の存在

価値を強く感じた時代です。買うモチベーション、売るモチベーションがひとつになっ
て、国中がモチベーションの高かった時代です。モノが行き渡ると「役務(サービス)」を購買することにシフトしましたが、自分が必要とする「役務」が曖昧になってくると、働くモチベーションも経済も失速が始まりました。

心の時代と言われはじめ、いまも続いています。

人は誰でも価値ある存在だと思いたい者であることに永遠のテーマなのです。

ですから、私たちは商売をするとき、特に小売業のようにエンドユーザと接するときには、心に留めておきたいことがあります。

モノはただモノではなく、お金と交換したらいいという考えは禁物なのです。サービスがいいを越えて「いつも人の存在価値」と向き合っていることを忘れてはいけないのです。



2013年7月6日土曜日

マネジメント最終マニュアルのご紹介




マネジメント最終マニュアル(会社を潰さない社長の仕事)
ビジョンをイメージに高めるために、イメージを実現するために、公私にわたってマネジメントは必須になります。個人でも、チームでも、組織でも同じです。

そこでもう一度、マネジメントが分かったつもりの方に、マネジメントについて見直す、マネジメント最終マニュアルの一部をご紹介。


マネジメント最終マニュアル 1

必要があるか?

「必要」を感じない者が商品やサービスを買うことがないように、ビジョンや目標のない者、目標達成の必要と感じない者がマネジメントを必要と思うことはない。だからマネジメントがどういうものなのか理解する必要もないので、自分なりの解釈で事足りている。



マネジメント最終マニュアル 2

自己否定感が障害になっている。

自己否定感が強いと、自分の行動に問題発見できないので、何事も外部の要因にしてしまうので、マネジメント力は向上しなくなる。結局、ビジネスは人間力で決まる。人間力を高めるためにも正しくマネジメントすることが重要だ。なぜなら成果は自己肯定感を高める。



マネジメント最終マニュアル 3

負のスパイラル。

成果は自己肯定感を高めるが、目標がなければ成果とは言わず単なる結果でしかない。単なる結果に終始していれば、いつまでも内心では自己否定感に怯えて「自分は偽物」意識で過ごすしかない。つまり負のスパイラルから脱出できない。いかに目標が大事かということだ、



マネジメント最終マニュアル 4

成果主義と結果主義。

目標に対する結果の多い少ないではなく、目標に到達したか、しなかったで、評価するのが「成果主義」だ。「達成率」という概念は、結果主義のことであり、成果主義とは異質なものだ。結果主義は自分にできることに終始する。これを現場主義と錯覚している場合がある。つまり成果主義には理想主義、結果主義には宿命主義が根底にある。これは仕事の仕方というより、生き方の問題だ。組織は人次第と言われる由縁だ。




マネジメント最終マニュアル(会社を潰さない社長の仕事)




マネジメント最終マニュアル   5

だからマネジメント。

成果主義は困難を伴う。なぜなら自分に出来そうにないことを目標とするからだ。だからマネジメントが必要になる。マネジメントとは理想を掲げ、それを実現するためのプロセスを現実にしていくスキルだ。あきらめが前提になっている結果主義には目標がない。そこには人が成長する土壌がなく、企業風土に反映される。


2013年5月9日木曜日

ビジョン VS 宿命主義



一般に「ビジョン」とは、数10年後先の目標です。移り変わりが早い状況にあっては、もう少し短縮するのもいいでしょう。目標は数値で表現しますが、個人の場合は数値で表現するのが難しい場合も多いので数値でなくてもいいでしょう。しかし50歳以降に自分がどうなっていたいのか、どのような能力と社会的影響力をもっていたいのか、という内容がビジョンには必要です。

それがあまりにも抽象的だと、単なる夢や幻に、あるいはスローガンに成り下がります。では、ビジョンの特徴とは何でしょう。

それは現在の自分の、毎日の考え方や行動を律する基準になっているかどうかなのかです。これがなければビジョンとは言わないのです。

事業としてのビジョンの場合も、個人としてのビジョンの場合も、共通していて、次の条件が必要なのです。

第一に、現状を根本的に否定する内容であることです。 現状を否定する考え方が基準になっていなければビジョンとは言えないのです。

このビジョンに基づいて「もっと頑張ろう」というのでは、いかにも前向きに見えて実は後ろ向きなのです。それは現状肯定型であり、現状よりよくなることはないのです。

いま考えていること、やっていることはベストなのだから、このまま、あるいはもう少しやろうということでしかないのです。それでは現在の延長型にすぎない。結果は行動の結果なので、現在の延長を続ける限り、結果も現在の延長になります。

それがイヤだと言うなら現状否定をする。真のビジョンというものなら、「これではダメだ」、「根本的に変更しなければ」、「乗り換えねば」と、いつも反省することになります。結果の変化を求める現状否定から始めるしかないのです。これが現状否定型の論理なのです。


第二に、不可能への挑戦が常識的になっていることです。現在の自分には、とうていで
きそうにもない、自分には及びそうにもないことを、自分でできるようにするのが、
ビジョンという精神的な支柱です。

だから、自己限界をはるかに乗り越えたところにビジョンの設定が必要になります。あきらめを克服し、現在は障害や制約と思われていることをなくしてしまうためにこそ、ビジョンがあると考えるのです。

第三に、長い道程が前提になっていることです。ビジョンは数10年後の、自分の人生
の到達点です。だから短期決戦ではないので、壮大なものになります。ちょっと背伸びすれば届く程度のことを、ビジョンと呼んではならないし、そんなものは断じてビジョンではないのです。

以上のことは、個人のビジョンにも、企業ビジョンについてもまったく同じです。

ビジョンの対極にあるのが、あきらめ、つまり宿命主義です。
ビジョンが意志を働かせ理想を追求するのに反して、宿命主義では流れに身をまかせたあきらめでしかないのです。
ビジョンが人々の幸福を願い実現に挑むのに対して、宿命主義は利己的です。
ビジョンが先人たちの教訓、つまり原理原則を土台をするのに対して、あきらめ主義の場合には我流の思いつきのアイデアを採用します。

そして決定的に違うのがビジョンが生き甲斐の追求をするのに対して、宿命主義ではやりがいを追求します。

生き甲斐とはなんでしょう?
それは個人のハードワークの連続によって、他の大勢の人々の暮らしが少しでもよくなっていくことが実感できることです。
つまり普通に考えたら、損をしている、なんでこんなにしんどいと思えることを、自ら引き受けて、そこによろこびを見出せることなのです。
この考え方も先人達が残した原理原則から導かれたものでしかありません。

「なんで人のために、そこまでしなくてはいけないんだ。」と言う人には、見つけられないのが生き甲斐なのです。どこの会社のクレドにも書かれていることを、よく見ていただくと結局はそういうことなのです。そこまでの気迫のない人にとってクレドを展開する意味が発見できなくても仕方がないといえばそうなのです。

だからこそ、クレドに成功した会社は飛躍的に成長しているのです。人々に受け入れられた結果なのです。受け入れられ成長するのは当たり前なのです。
クレドとは生き甲斐のかたまりなのですから。





2013年5月8日水曜日

責任と義務とは何か、義務が果たせないのは上司の責任


「責任と義務」は組織の背骨ですが、責任が数値目標を達成することにあるなら、義務とは何でしょう?義務とは予め定められた規定と命令を果たすことです。明らかに任務が違うことは、職能の違いを意味しています。

責任はその名の通り「責任者」つまりスペシャリストが果たすことであり、義務は責任者でない人、スペシャリストでない人が果たす仕事なのです。スペシャリストでない人が果たす仕事とは、責任者から明確な命令のもとに果たすことで、明確な命令と、果たすべき能力の有無の確認がされた後のことです。この命令と能力の確認は責任者が果たす責任の種類なのです。

ところが、この責任を果たしていない責任者、果たせない責任が多いので、現場は混乱します。本人が命令を実行できるだけの能力があること、そのためには、事前に不足する能力の発見と、不足を充足する教育および評価が行われいていることが業務の効率を向上するためにも、人材を育成する上でも欠かせないのです。

もし、本人に命令を理解する能力がないとしたら、これは本人とその従業員を採用したものの責任です。しかし、それ以外の要素、能力不足の確認と充足する教育や命令の在り方は上司側の責任です。

さらにできなかった場合に、

  1. どのような作業ができなかったのか。
  2. できなかった原因として、どのような本人側の過失または怠慢があったのか。
  3. どうすべきだったのか。
  4. 同じミスを繰り返さないためには、今後どの部分をどう変えるべきか。

これらを上司が誘導して本人に確認させることが、上司が行う「反省」です。
これらがなく、本人の責任にするのは、重要な責任回避なのです。この責任回避が継続的に行われた場合、企業は成長できなくなり、人材は枯渇します。

このような間違いはスペシャリストにある立場の人が意識すれば容易に修復でき、あるべき姿に調整できます。もったいのないことなので、是非正しい姿に戻してください。

もうひとつ重要な問題があります。義務を負った人は誰に対して果たす義務があるのか、認識できるようにすることです。これが曖昧だと責任制度は機能していないことを意味します。たとえば「あなたは誰に対して果たすべき義務があるのか」と尋ねた場合、「会社に対してあります」と返ってこないでしょうか?

これはとんでもない誤認なのです。正しくは「命令を下した上司」です。

このような混乱が組織に見られるようなら背骨の矯正を行ってください。つまりマネジメントを正しくするということです。

このような混乱状態で組織図をどう描いても組織は機能していないのです。修復方法はマネジメントを正しくする以外にないのです。ところがこの場合にも誰か特定の個人を攻撃するだけで終わっている場合が多いのです。それではいつまでたっても組織は強くなりません。マネジメントの正常化。仕事の仕方を変えることが最優先なのです。




2013年4月30日火曜日

「責任と義務」は組織の背骨



組織を正常に創り正常に機能させるために責任と義務についてお話しておきましょう。
同業者であっても、大小に関係なく、組織の在り方は、随分と違います。単純に考えると同じ業種で成果をあげるには共通点が見られるものですが、実際にはまるで違うことが多いのが実情です。

その最大の原因は「責任と義務」の在り方も解釈も違いすぎるからです。しかし不思議なことに当事者にはあまりその意識がないのは、いくつもの同業他社を体験していないからです。そのため見学しても表面的になりがちで、特に「責任と義務」については、それぞれが自分の都合の良いように歪曲することが少なくありません。

責任とは、スペシャリスト(マネジャー)が、
①上司から数値目標を予告され、
②みずから実行計画を起案し、
③両者の合意の上に、
④実行を約束して、
⑤その目標を達成する
以上に尽きます。

ですから辞令を交付されたときから、請負契約書の締結と同じことになります。この意識がないと組織の背骨はまたたく間に歪んでしまい、組織は正常に機能しなくなります。
もしも目標数値が達成できないときは、請負契約のときと同じように契約したときの報酬が減額されることもあるのも仕方のないことです。そこまでしない会社の方が多いので、誤解をしてしまう人が少なくありませんが、それは期待値を含んで減額されていないと考えるべきなのです。

言いたいのは減額が目的ではなく、正確な実行計画を起案できるスキルと実行力を高めることなのです。

マネジャーには部下を持つマネジャーと部下を持たないマネジャーがいますので、部下を持つマネジャーの場合は部下を使って数値目標を達成する責任があります。それを織り込んでの実行計画を創る責任があるので、自ずと教育計画も含まれているはずです。ですから離職者が出ると実行段階で大きな痛手になります。この点も考慮されているはずなので、部下ののコミュニケーションについても細心の注意が必要になります。そこで組織づくりに不可欠な5つの条件にこだわりが生まれます。

1.人間の能力は教育によって無限に向上する
2.組織づくりが、やりがいと生きがいのある人間力アップのシステムであること 
3.労働法規を遵守していること
4.労働条件を停滞することなく向上させ続ける
5.職能適性検査に基づく適正配置をする

数値目標の達成が組織を創っていく役割をしているのです。表現を変えると業績の良い会社ほど組織がしっかりしていくのです。

ところが「責任」の意味を誤解していると、組織がしっかりしていないから業績が良くないと解釈する傾向にあります。この発想は何かに影響して、問題は外部要因にあって、自分たち内部にあるわけではないと考えます。

この傾向が両極端となり、同業者でありながら、全く違う社風の会社が誕生することになります。
なぜそうなるのか?最大の原因は実行計画を起案できない点にあります。あるいは起案させない点にあります。
なぜなら、果たせるはずの能力があらかじめ確認されないかぎり、数値目標の手続きは始まらないからです。能力がない者に数値目標を与えることは、その段階で与える側の責任放棄だからです。会社が若く、能力が身についていない場合もありますが、だからこそ学習のためにも実行計画が必要になります。

実行計画が第三者に分からない状態でフォローすることは不可能です。なぜならどこが間違っているのか、誰の目にも明らかにならないため、主観でのフォローに頼るしかありません。つまり上司側がカンを働かせて、間違いを探さなければならず、何かにつけて否定的になる危険があります。不当にやる気をなくさせる可能性があり、それを嫌うとやたらと感情的に肯定して、問題を客観的に捉えて改善することができなくなります。そのため幾度、挑戦しても進歩ができないという不幸に陥ります。

若いうちは、その方が当人も楽ですが、やがて年齢にふさわしい責任ある態度がとれなくなります。当初は独身だった人でも、その頃には家族もいるはずですが、ふさわしい役職を全うする力量もついていないことになります。

計画目標と実績との差異が縮まらないで、頭をかけばすむという状態が長く続くはずがないのです。長く続けられるとしたら、何かが間違ったままなので、続けば続く程、後で支払う利息も膨大になります。
つまり責任制度とは、きわめて人間的な温もりを持ったものであって、自由な生きがいとやりがいをめざしているのです。それを誤解していることは、この放棄に他ならないのです。


2013年4月2日火曜日

組織づくりの基本



組織づくりの基本

1.人間の能力は教育によって無限に向上する
2.組織づくりが、やりがいと生きがいのある人間力アップのシステムであること 
3.労働法規を遵守していること
4.労働条件を停滞することなく向上させ続ける
5.職能適性検査に基づく適正配置をする



  1. 人間の能力は教育によって無限に向上する

実際はどうあれ、人間の能力は教育によって無限に向上すると考えて、教育
対策を綿密に設定し、つねに教育を推進することが組織づくりの基本です。

ところがこれを拒否または嫌悪する従業員が少なくないのは、会社側が用意した教育の内容と見通しとが劣悪なためと評価すべきである。その最大の原因は目標達成のプロセス、結果と評価が形式的であることが影響しています。評価するためにとってつけた評価であり、現実の活動から乖離してしまっているケースが少なくないからです。現実の活動とはなにか。目標が達成できる仕組みに則った活動です。

どうすれば求める結果に辿りつけるか、 結果から逆算して、プロセスを計画し、計画通りに実行して、ところどころ必要な修正を行い続けることです。
教育は必要なプロセスが実行できるようにすることにありますが、計画が逆算したものでなく、主観的な根性論なら教育は結果に寄与することは少なく、教わることが現実と違うためリアリティがなくなるので、嫌気がさすのです。

さらにそういう状態になれてくると、根性論が浸透してくるので、教育が余計なもののように思えてくるのです。このことは先にも話したようにマネジメント&コントロールが理解できないまま、当人は知り尽くしていると誤解してしまうのです。このような劣悪な環境を作らないように組織づくりの基本を正しく押さえておきたいものです。








計画は修正していますか


日本流の計画は、もともとスローガン的願望であることが多く、それゆえに途中修正がないのが一般的です。しかしあるべきシステムではむしろ修正が起こるのが条件のように考えられています。

但し期限直前の修正では計画の意味がありません。達成したかどうかは、計画と実績との差異の幅が誤差の許容限界内ならOK 、それを出ればノーです。許容範囲がない場合、計画はなく目標のみはスローガン状態である場合がほとんどです。つまり気合いでスローガンに取り組んでいる状態が続いているので、やる気なれば目標に近づき、疲弊すると目標から遠ざかるという気分次第の結果になってしまうのです。

もう一つ忘れてはならないのがスケジューリングの使い方です。

週単位の進行計画であり、週ごとに果たすべき課題が異なるから、遅れがある場合には本人をはじめ、関係ある職位、ポジションの誰にもわかることが大切なのです。そのためコピーした書類は、関係ある職位、ポジションにすべてに配られていることです。

これによって、しかるべき助言と、必要ならば強制力のある助言(勧告)、あるいは命令によって修正が行なわれるのが普通なのです。ときには同じ原因の問題が他にも起こっているとして、他のマネジャー、スペシャリストへも修正命令が出されることもあります。原因が本人によるものではない場合、その問題の解決、排除は他の職位で行なわれることになります。つまり指導、サポートがタイミングよく的確に行なわれるのです。

一般的に、こうしたスケジューリング、すなわち週ごとの進行計画表ができていないから、遅れが明確にはつかめない。なんとなく、遅れている感じだ
けで、時機を失してしまうし、計画は絵に描いた餅に帰してしまいます。

「計画」という言葉に権威がないのは、実はこうした修正や指導が不可能
なためです。それは計画の中身がまるっきり分からない、あるいは違っているからなのです。計画がないと主観による叱咤激励にしかできなくなるので、本来の仕事から離れ人間関係を複雑にしてしまうという全く違う次元の問題になるので、立ち入れなくなってしまうのです。

立ち入れなくなるとは、結局期限終了後にしか参加できないので、終わったことを云々することになりますが、これでは教育にならないのです。
教育の基本はon-the-job trainingですが、事後はONではありません。これを続けるため、誰も本当には仕事を知らないという状態が作られてしまうのです。




2013年4月1日月曜日

スペシャリストとはマネジメントする人






マネジメントのことを、「管理」というと、本来のマネジメントの意味から遠のいてしまい、保全、維持というイメージが強くなってしまい誤解を招きます。このため変化を嫌うマネジャーが出てくるという

マネジメントは逆に、自ら変化を起こし、変化することで、新しいよりよい状態と数値に迫っていくのが本質だからです。

どうでしょう?保全、維持が仕事の中心になっているマネジャーを見かけませんか?国会で問題になる人たちに、このタイプの人が多く批判の対象になっています。

随分と違いがあると感じてもらえると思いますが、感じないとすればかなり問題で、もし、マネジメントする立場にあるとしたら深刻です。

マネジャーは、部下に作業させることによって数値責任を果たせる人であり、数値責任を果たすことが仕事の本体です。

マネジャーつまりマネジャー・スペシャリストに対してタレント・スペシャリストは、みずから作業をすることで数値責任を果たすわけです。

タレント・スペシャリストとは部下を持たずに任務を果たすスペシャリストのことです。カーディラーの営業マンの方はその典型ですね。

マネジャー・スペシャリストは部下を持ち、部下を使って任務を果たすスペシャリストです。どちらもマネジメントをしている点では同じです。両者共に、最初に目標があり、それを達成するための努力を、さまざまにやりとげていきます。 成果主義にふさわしい立場の人と言えます。

さて、目標があり、それを達成するための努力を、さまざまにやりとげない人がいます。こういう人はマネジメントしているわけでもなく、スペシャリストであるはずもなく、スペシャリストになることを放棄しているといっても過言ではありません。会社が出来高主義だとこの種の人を増やしてしまいます。

部下がいても、いなくてもスペシャリストは自ら目標の達成の手段を用意し、実行する者であって、指示・命令を受けて作業するワーカーとは違います。










2013年3月29日金曜日

40歳までに身につけたいマネジメントとコントロール


前回、お話したマネジメントとコントロールという二つの基本技術はどんな職種や職場でも使えるノウハウです。ですから是非とも30歳代で身につけるようにして、40歳までには実現するようにしたいことなのです。
マネジとは語源は、10世紀ごろは野生の馬をつかまえて調教し、目的地に到着すること、あるいは倒木や古木にまたがり、漕いで川や湖を渡ることを意味しています。これをビュジアルで見せているのが、意外にもセクシー女優、マリリン・モンロー主演の「帰らざる河」なのです。



それが近世になって、経営用語として転用されたもので、他者である部下を使いこなして目標を達成する、という技術のことなのです。
いまだにNHKでもマネージャーと表記していますが、これひとつみても「マネジメント」が正確に日本に輸入されなかったことを物語っていて、その名残りで、便所掃除などを率先してやり、部下に後ろ姿を見せて働いているマネジャーが偉いなどという感情的な説明が罷り通っているのです。誤解されては困るのですが、便所掃除を率先してするのが悪いということではなく、マネジャーの仕事はあくまで目標を達成することにあります。

感情的な評価が可能になると、休まず、遅れずの「見せかけの勤勉」が通用してしまうのです。そしてやる気論になってくる。しかし、やる気があっても、できないと仕事にならないのです。

見せかけの勤勉の正体」の著者、太田肇氏はその前書きで次のように書いています。

2009年3月に開催された第二回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。野球の「世界最高峰」を決める大会と銘打っているだけに、参加選手の意気込みはすごかった。
クールなイチロlが野球青年の本能をあらわにし、自ら先頭に立ってチlムを引っぱろうとしていた。彼がこんな姿を見せたのははじめてだ。イチローだけではない。松坂も、ダルピッシユもふだんの公式戦では見せない、なりふり構わぬ真剣さで闘った。そしてWBC日本代表として連続優勝を成し遂げた瞬間、年俸数億円のスーパースターたちが子どものように抱き合って喜んだ。

しかし、そばにいた原監督だけはちょっと違っていた。
口を真一文字に結んだ端整なマスクからは、喜びと興奮を懸命に抑えようとしているのが伝わってくる。「主役は選手たち」という一歩引いた姿勢を最後まで貫き通したのだ。

この大会はドラマチックな結末で終わったが、仮に日本チlムが連続世界一という栄冠を手にできていなくても、選手にとって、またファンにとっても特別に印象に残る大会だったに違いない。大会後、イチローが胃潰瘍を患い、松坂が肩を故障してシーズンの大半を棒に振ったのも、究極のモチベーションがもたらした後遺症だったのだろう。結果だけで言うわけでなく、半年前の北京オリンピックで彼らが見せた表情や態度とは明らかに違う。あのときは「星野ジャパン」の総帥、星野監督が見せた熱血ぶりとは対照的に、選手
たちはどこか冷めていた。

どちらも世界一を決める晴れの舞台。中心選手の顔ぶれはそれほど大きく変わっていないし、監督もそれぞれが球界を代表する人物。けれどもスター選手の燃え方がなぜ、これほど違うのか?

私に言わせるとそれは必然的であり、そこには「やる気のパラドックス」というべきメカニズムが働いていたと考えられる。思うに原監督は「やる気のパラドックス」を理解している数少ない現役監督の一人であり、代表監督就任を受諾した時点で、スター軍団の能力とモチベーシヨンを最大限に発揮させるには、自分がどんな姿勢をとればよいかわかっていたのではないか。

話はガラッと変わるが、私たちはつぎのような現象をしばしば見たり聞いたりする。
並はずれた努力と負けん気で競争を勝ち抜き、功成り名を遂げた人たち。野心と執着心も人一倍強い彼らは、自分の成功だけではものたりず、わが子に後を託そうと子育てにも情熱を傾ける。幼いころから塾や習い事に通わせ、おだてたり伺喝したりしながら、何とかわが子にも親と同じやる気を共有させようとする。

ところが、どういうわけか、子のほうは親の遺伝子を受け継いでいるはずなのにまったく欲がない。たとえ表面的にはやる気を見せていても、本物のやる気とは質が違う。当然、生き馬の目を抜くような競争は勝ち抜けない。ニ代目、三代目がパツとしないのは、単に彼らがハングリー精神に欠けるだけでなく、そこにも「やる気のパラドックス」が働いているからである。


今、企業が社員を採用する際に、また学校の教師や公務員を採用する際に、最も重視するのは「やる気」、「熱意」だ。また本文で述べるように、社内の人事でも実は「やる気」を評価する傾向が強まっている。不況や低成長で給与を上げられないと、いっそう精神論に走りやすくなるのだ。おまけに「やる気」や「熱意」といった言葉を並べておくと世間受けもよい。今や日本の組織に、そして日本社会全体に「やる気主義」が蔓延している。
けれども、それによって社員の、また日本人のやる気が上がっているだろうか?
答えは、「否」である。

皮肉なことに、それと反比例して「やる気」は低下し、日本人自身をして「世界でいちばんやる気がないのは日本人』(可児鈴一郎、講談社)とまで言わしめるようになってしまった。それほど「やる気主義」はやる気にとって有害なのである。「やる気のパラドックス」に気づかないで、このまま「やる気主義」をとり続けたら企業も社会もじりじりと活力を失っていくのは目に見えているし、日本人が歴史上最もやる気のなかった時代として後々語り継がれるだろう。

言うまでもなく、「やる気」はとても大切だ。やる気しだいで、とうてい不可能と思われていたことが可能になることもあるし、逆にもって生まれた能力を生かせないままに終わってしまうことだってある。だからこそ親は子の、教師は生徒の、上司は部下のやる気にこだわる。けれども、案外何がやる気を妨げているかには気づかないものだ。ましてや自分の言動が、意に反して相手のやる気を奪っているとは想像もしない。たとえ気づいた
としても、そこから抜け出ることは想像以上に難しい。

そもそも私たちは「やる気がない」というと、やる気を引き出すことばかり考える。お金、働きがい、楽しき、自己実現・・・。書店にならぶビジネス書も、社員や部下をやる気にさせる方法を説くものばかりだ。私はそれが不満だった。やる気を引き出すことを論じる前に、何がやる気をなくさせているかを考えるべきではないか、と。自動車だってサイド・ブレーキをかけながらいくらアクセルを強く踏んでもまともに走らない。無理に走らせようとすると故障してしまう。人間だって同じで、いくらやる気を出させようとしても、それを妨げているものがあれば、やる気は出ないし、無理に出させようとすると組織も人間もおかしくなる
人間の場合、だれでも内部にやる気の源泉、すなわち車のエンジンに当たるものをもっている。したがって、やる気をなくさせているものさえ取り除けば、自ずとやる気を出すはずだ

この書籍見せかけの勤勉の正体では、本物のやる気を引き出すリーダーシップとマネジャーの姿勢について追求していきます。

評価の曖昧さ、目標の在り方、管理、仲間同士の牽制・嫉妬、処遇などモチベーションを引き下げている要因をピックアップして行きます。
結局、なにが問題かというと、従業員の本音を知りようのない社長を筆頭に管理者が現場の仕事と正しい仕事の仕方を知らないことに尽きるのです。

『これだけ社員のやる気がない、やる気が出ないとわれると、経者やマネジャーは反発したくなるに違いない。
「社員のやるや働きがいには十分気をつかってきた。ドライな欧米企業とちがって成績があがらなければクビを切るようなことはしないし、たとえミスをしても向こう傷は問わないようにしてきた。またやる気のある社員には、ポストに関係なくやりがいのある仕事も任せてきたはずだ。これだけ社員のやる気を尊してきたのにやる気が出ないとは、甘えるのもいいかげんにしろ!」と。
実は、そこに落とし穴があるのだ。』と太田氏は語る。さらに太田氏は続ける。

つまり、根っこは一つなのだ。それは、部下のやる気を常に鼓舞し、何よりもやる気を重視する「やる気主義」である。
社員が自分の仕事を片づけても帰れないし、たとえ仕事に余裕があっても休暇を取りにくいのは、休みを取らず遅くまで働く者ほどやる気があると上司が決めつけ、それをプラスに評価するからである。逆に、いくら仕事ができても早く帰り、休暇を完全取得していてはやる気がないと見なされ、高い評価は得られない。


やる気主義が蔓延している会社では、技術不足、もっともな作業プロセスを説明しても「やる気が問われている」と勘違いされてしまいます。違いが分からないのです。そういう会社では、考えさせることが必要なのですが、それが思うようにいかないのは明白です。白か黒か、イエスかノーか思考に染まっているのです。ですから命令の方が話が早い。そのように育てて来た結果ですが、その裏にはやらされ感があります。やらされ感が強く、考える力が弱いとマンネリ感がなかなか拭えないのです。

さらに、休みを取らず遅くまで働く者ほどやる気があると上司が決めつけるのには、上司の言い訳(無意識の自己満足)という巧妙なトリックがあります。このトリックは部下にすれば抜け道になります。 労働条件が厳しい反面、 やっているフリが通用してしまうのです。これが「落とし穴」です。
これが本のタイトルになっている世界に名高い見せかけの勤勉の正体なのです。世界に名高いというのは、外国人と仕事をしてみたら分かります。彼らは決めた条件通りにしか働きませんが、条件で定めたことには遂行するのに一生懸命です。建前がないのです。これがマネジメントとコントロールの基本なのです。

やる気を出せばもっとやれるはずだという思いが、部下に過大な要求を押しつけ、目標をエスカレートさせてしまう。そして、やる気のある者、忠実な部下には報いてやりたいという思いから処遇に差をつけ、それが結果として社員の聞に不満や不公平感を抱かせる。そもそも寄って立つ基準がやる気という主観的なものである以上、納得できない部下が出てくるのは当然である。

いっぽう、過剰な管理や人間関係の問題は「やる気主義」と無関係だと思われるかもしれない。しかし、それらも源は「やる気主義」に発していることが多い。
マネジャーというものは、自分のやる気や意気込みが強過ぎると、その意欲とエネルギーが部下の管理に向かう。またマネジャー自身が上司からやる気や忠心を見られていると思うと、それをアピールするため部下を過剰に管理してしまうことがある。

その通りなのです。そして自分のやる気や意気込みが強過ぎるほど、継続できないのです。マネジメントとコントロールは誰がやっても同じようにできる再現性を追求したものなのです。この点から見ても、主観に偏り、感情の起伏をエネルギーにして強制的に行動して当面の目標を達成するやり方には、疲れてしまって連続性がないのは明白なのです。

強制ではなく自発性。それには共感が必要なのです。一方、強制がなく自発性を期待するだけという職場もあります。これも失敗します。共感がないからです。マネジメントに於ける人を使って目標を達成するには、人が動く動機が必要なのです。それが共感です。共感というと主観のように思うかも知れませんが、計画された共感づくりには、誠実な下心による緻密な計算が必要なのであって、マネジメントの重要な部分なのです。

このような間違いを30代で正しておかないと、本当のマネジャーにはなれないまま、40歳を迎えてしまい、社員の生活設計も会社も歪んでしまうのです。

2013年3月1日金曜日

マネジメントの実際の中身



スペシャリストが、目標の達成という課題を実行する手段は、何でしょうか。
目標は上司からの命令で出てくることが多いものですが、それを表現するためには、それをさらに細分化したプログラムを作りいくつかの小さな課題に分解し、小さな目標を自分自身でたくさん立て、マイルストーンを使って消化していく必要があります。(建築業者が使う行程表をイメージすると分かりやすいと思います)

その目標を実現するには、いろいろな方法を考え出さねばならないわけですが、重要かつ肝心なことは、それぞれの方法について決まりを決めねばならないということです。

つまり、たいていの目標は達成するのに時間がかかるものだから、そのひねり出した方法、あるいはあらかじめ決められている方法を継続していかねばならなくなります。その継続するための方法が、「決まり」です。

ビジネスの上で追求される一つの数値あるいは状態は、数時間だけやれば実現してしまうというものではありません。何日間も何か月もかかるということは、それだけの期間は同じ作業を同じ方法で継続しなければならないということです。

ここに、マネジメントの実際の中身があり、その重要さを理解できていなければ間違ってもは、スペシャリストにしてはいけないし、なってはいけないのです。

マネジメントの実際の中身を決め、それを実行するのがマネジメントなのです。つまり、どのような方法について、どのような決まり、つまりルールを決めるかが仕事なのです。



それには次の5つの条件をクリアしなければなりません。

①調査と実験を繰り返す
②ルールを修正し続ける
③教え続ける
④ルールどおり行動する部下を評価する (他の要素での評価を優先しない)
⑤ルールどおりの作業の進め方を習慣にしてしまう。

このどれかひとつでも省略するとマネジメントは機能しなくなります。

ところが、この実際がどうなっているかというと、
①調査と実験を繰り返す→思いつきで
②ルールを修正しつづける→間違ったやり方を変えようとはせず、ルールを無視するようになる、
③教え続ける→一度示達しただけで終わり
④ルールどおり行動する部下を評価する→他の感情的な評価を優先させて、ルールどおりにやっている人を低くしか評価しない
⑤ルールどおりの作業の進め方を、習慣にしてしまう→その都度、考えてやらねばならなくしている

いずれも、マネジメントを自ら放棄し、マネジメントをできなくしてしまっているケースが圧倒的に多いのです。なぜそんなことになるのか、その最大の原因は継続・維持という最も重要な原理を無視しているからです。その理由に調査と実験を繰り返さず、個人の思いつきで取りかかっているという無謀があるからです。つまり元々信用できていないことを本気でやれる状態ではないのです。

同時に、ルールは少しずつでも修正されていくことによってのみ有効であって、よ
りよくなっていくものです。これは一見すると継続の原理と矛盾するようですが、実務上はそうではありません。実務に当たっている方なら実感できるはずです。
少しずつ変えるのであって、大勢はそのまま継続になるからです。しかもむやみに追加するのでなく、追加と削除を同時に行うという本当の意味での変更なのです。


ところがここでも変更は無責任だというわけのわからない意見が出てきます。結果が芳しくなくても変更しないほうが無責任なのは良識のある者なら理解できるはずです。

しかし大事なことは習慣づけであり、昔からこれを躾と言い、これをもって社風、企業文化と表現してきたのです。社風とはムードではなく、共通した反応の仕方のことなのです。それを「その会社らしい」とムード的な表現をしているだけで、実際には科学的な実験と観察、習慣化によって導き出した決まりのことなのです。



2013年2月27日水曜日

実は知られていないマネジメント&コントロール。あなたは乃木タイプ? 児玉タイプ?




実は知られていないマネジメント&コントロール。

マネジメント&コントロール、正しく使っていますか?あまりにも当たり前すぎて、自分なりに、これがマネジメント&コントロールと解釈されて、間違った仕事の方法に疑問を持たずにいる方がたくさんいます。


日本では最前線チームを、従来から店舗運営部とか営業部、販売部と呼ぶことがありますが、アメリカではすべて作業部隊を意味するオペレーション・セクションあるいはファンクションと呼びます。

販売や営業は店舗段階だけでやるのではなくて、会社全体でやっているのですから、店舗グループを表現するのに絶対にセールスという言葉は使いません。

コントロールという言葉にも、独特の意味があります。中小企業診断士のテストでは管理と統制と使われたりしますが、本来のコントロールと統制には随分違いがあります。


たとえば小売業とサービス業というビジネスは、ていねいにやりはじめたら、これでいいという底がなく、無限にやったほうがよい仕事が多いものです。徹底しようとすれば、人件費をいくらかけてもキリがありません。

そこで成果を決定づける必要な作業だけに絞りこみ、その代わり、不可欠な最大の任務だけは徹底的にやり遂げることに専念するオペレーションをモットーとしていて、絞った課題については完全に実現するのです。

つまりオペレーションとは完全にやり遂げるために現場のすべてを総称する言葉であり、全社あげて徹底してやり遂げる作業のことなのです。つまりドライ商法と言われているものです。


マネジメント&コントロールのコントロールとは、期限前に現在進行中の数字を使って、命令の変更と教育の追加で作業内容を変更することです。それによって期限前に数値を変更させ、目標数値に到達させる、つまりコントロールすることでマネジメントの目的を達成するのです。そういう意味でマネジメントとコントロールは切っても切り離せない関係にあるのです。

そして、マネジメントとは、日本語でいう管理という意味ではなく、どのようにしてでも到達することです。このことが間違って使われているために「マネージメント」と表記されたりします。「マネージメント」では「マネジメント」本来の意味が違ってきます。「マネジメント」の語源は「Manage」であり、その意味はとんでもない状況にあっても、状態をコントロールしながら、目的地に到達することを言います。


つまりマネジャーとは、どのようにしてでも目標を達成する人なのです。



最初からできそうにないことを悪戦苦闘しながらやり切るのがマネジメントであり、困難は前提条件として折り込み済みなのです。
座して、ああだ、こうだと言ってるイメージとはかけ離れているのです。

できそうにないことをやるわけですから、計画の内容が一番最初に重視され、吟味されるのは当たり前であって、この習慣がないから PDCAがいつまでたってもできないのです。つまり計画が反省を繰り返した上で策定されていないのです
そのため、何年働いても 人が育たないのでプロフェッショナル不在の原因になっています。

プロフェッショナル育成には時間がかかります。だからこそプロフェッショナルには自信と誇りが芽生え、それがリーダーシップに発展して行きます。

真のリーダーシップと形ばかりのリーダー、管理と統制、マネジメントとコントロールの違いが分かりやすい娯楽映画があります。「二百三高地」です。この話は司馬遼太郎の「殉死」「坂の上の雲」でも描かれています。前者が乃木将軍でおなじみの乃木 希典陸軍大将、後者が児玉源太郎総参謀長です。娯楽映画ですから、少し考えながら観ていただくと誰にも分かりやすくなっています。






あなたは乃木タイプ?
あるいは児玉タイプ?


重要なのは、 期限前に現在進行中の数字を使って、命令の変更と教育の追加で作業内容を変更することです。期限後にもう過去になってしまった数字をもとに叱責、激励し、感情的、道徳的に奮起させる、あるいは奮起するのではないのです。

この違いが「二百三高地」でははっきりとビジュアルで見てとれます。これに関連して、リーダーシップ、チームワークの概念も間違わないようにしたいものです。次に言う「犠牲の在り方」にも言及していますので、参考にしてください。



最初からリーダーシップを身につけた人も、マネジメントできる人も、プロフェッショナルもいません。だから育つ期間が必要なのです。その期間は生産性も低いでしょうが、仕方がありません。犠牲にする期間です。

大事なことは犠牲の意識があること。繰り返す失敗が実を結ぶようにすることが大切なのです。

マネジメントできない期間は犠牲の期間、早くマネジメントできるように成長させよう、成長しょうとしる意識がなく逃げ回っているだけでは不毛の期間になります。