2013年5月9日木曜日

ビジョン VS 宿命主義



一般に「ビジョン」とは、数10年後先の目標です。移り変わりが早い状況にあっては、もう少し短縮するのもいいでしょう。目標は数値で表現しますが、個人の場合は数値で表現するのが難しい場合も多いので数値でなくてもいいでしょう。しかし50歳以降に自分がどうなっていたいのか、どのような能力と社会的影響力をもっていたいのか、という内容がビジョンには必要です。

それがあまりにも抽象的だと、単なる夢や幻に、あるいはスローガンに成り下がります。では、ビジョンの特徴とは何でしょう。

それは現在の自分の、毎日の考え方や行動を律する基準になっているかどうかなのかです。これがなければビジョンとは言わないのです。

事業としてのビジョンの場合も、個人としてのビジョンの場合も、共通していて、次の条件が必要なのです。

第一に、現状を根本的に否定する内容であることです。 現状を否定する考え方が基準になっていなければビジョンとは言えないのです。

このビジョンに基づいて「もっと頑張ろう」というのでは、いかにも前向きに見えて実は後ろ向きなのです。それは現状肯定型であり、現状よりよくなることはないのです。

いま考えていること、やっていることはベストなのだから、このまま、あるいはもう少しやろうということでしかないのです。それでは現在の延長型にすぎない。結果は行動の結果なので、現在の延長を続ける限り、結果も現在の延長になります。

それがイヤだと言うなら現状否定をする。真のビジョンというものなら、「これではダメだ」、「根本的に変更しなければ」、「乗り換えねば」と、いつも反省することになります。結果の変化を求める現状否定から始めるしかないのです。これが現状否定型の論理なのです。


第二に、不可能への挑戦が常識的になっていることです。現在の自分には、とうていで
きそうにもない、自分には及びそうにもないことを、自分でできるようにするのが、
ビジョンという精神的な支柱です。

だから、自己限界をはるかに乗り越えたところにビジョンの設定が必要になります。あきらめを克服し、現在は障害や制約と思われていることをなくしてしまうためにこそ、ビジョンがあると考えるのです。

第三に、長い道程が前提になっていることです。ビジョンは数10年後の、自分の人生
の到達点です。だから短期決戦ではないので、壮大なものになります。ちょっと背伸びすれば届く程度のことを、ビジョンと呼んではならないし、そんなものは断じてビジョンではないのです。

以上のことは、個人のビジョンにも、企業ビジョンについてもまったく同じです。

ビジョンの対極にあるのが、あきらめ、つまり宿命主義です。
ビジョンが意志を働かせ理想を追求するのに反して、宿命主義では流れに身をまかせたあきらめでしかないのです。
ビジョンが人々の幸福を願い実現に挑むのに対して、宿命主義は利己的です。
ビジョンが先人たちの教訓、つまり原理原則を土台をするのに対して、あきらめ主義の場合には我流の思いつきのアイデアを採用します。

そして決定的に違うのがビジョンが生き甲斐の追求をするのに対して、宿命主義ではやりがいを追求します。

生き甲斐とはなんでしょう?
それは個人のハードワークの連続によって、他の大勢の人々の暮らしが少しでもよくなっていくことが実感できることです。
つまり普通に考えたら、損をしている、なんでこんなにしんどいと思えることを、自ら引き受けて、そこによろこびを見出せることなのです。
この考え方も先人達が残した原理原則から導かれたものでしかありません。

「なんで人のために、そこまでしなくてはいけないんだ。」と言う人には、見つけられないのが生き甲斐なのです。どこの会社のクレドにも書かれていることを、よく見ていただくと結局はそういうことなのです。そこまでの気迫のない人にとってクレドを展開する意味が発見できなくても仕方がないといえばそうなのです。

だからこそ、クレドに成功した会社は飛躍的に成長しているのです。人々に受け入れられた結果なのです。受け入れられ成長するのは当たり前なのです。
クレドとは生き甲斐のかたまりなのですから。





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